それが神の計画(神の意志)だとしたなら
たとえそれが容易い道ではないと知りつつも、何かに突き動かされていくときがあります。
たとえそれが間違っていると分かっていたとしても、衝動に突き動かされていくときがあります。
それは、自分の範疇を超えた何者かによってただ突き動かされているとしか言いようがありません。
もちろん、真理からみるならば、誰もがただ動かされているだけです。
だとしたなら、いったい誰を裁くことなどできるでしょうか。
私たちが価値判断することに、意味付けすることに何の意味があるというのでしょう。
言い換えるならば、私たちには、瞬間瞬間、それぞれの最善を生きていると言うことができます。
そのときそのときの自分にとっての最善を選択して生きてきたわけです。
誰もがそうです。
だとしたなら、誰かを裁くことなどできるのでしょうか。
むしろ、それが神の計画(神の意志)だとしたなら、それでいい、それでよかったと言えるはずです。
みんなそれでいい。
すべてがそれでいい。
この自分と思っている「自分」も然りです。
私たちはそのことが分かっていなかっただけです。
そう、それが私がこのコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びを通して理解したことです。
自分は何も分かっていないのです。
この自分には何も分からないのです。
ただ、コースのイエスが教えてくれているのは、すべが完璧、完全であり、すべてが愛でしかないのだということです。
自分の考え、自分の知覚、そのすべてを明け渡して、その真実を受け入れるとき、私たちは今この瞬間にその真実を体現できるのだということ。
ならば、あなたはそれを受け入れたいと思わないでしょうか。
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