神を殺したという、それこそが認めたくないこと

6月27日に開催されたACIMオープンクラスにご参加いただいた方から、感想・シェアのメールをいただきました。


コース実践者にとってとても参考になるかと思いましたので、ご本人のご了承のもと、シェアさせていただきます。


興味のある方は、どうぞご覧くださいませ。




<Yさんからのメールより>


昨日のオープンクラスの最後のほうで気づきがあり、そのことについて(自分の内側を)見ていきました。報復にもえる神に消される!という恐れについてです。


少し長いですが、お時間のある時にお読み下さい。


森Gさんが、「自分を肉体と信じさせることによって、自分を殺そうとしている。つまりは、神を殺そうとしている」と言われたあと、神を殺したという、それこそが認めたくないことなのだ!と思い当たりました。


『神から離れた』という事なら、殺してないから、まだ罪が軽いし認めてもいいけど、『神を殺したというのは、絶対に認めたらダメだ!罪が重すぎる』という思いが、ぽこりと湧いてきました。


どちらも同じ事だと認められれず、差異を見ていたいし、とても恐れているから、罪を少しでも軽くしたいのです。


そして、神を殺したくて自分がやったのだと認めたら、それこそ、本当にもう赦してもらえなくなる。ひどい報復をされるに違いない!いつか消される!怖い! との思いが出てきました。


そこで、怖さを見ないといけないのに、思考が流れてしまいました。

余程見たくないのだなぁ、と思います。


その怖いは、まだとてつもない恐怖というのではないのです。

あえて、自分で怖さを感じないように弱めてる感じがします。

そこで、隠ぺいしてる。


とてつもない恐怖を感じるのが、本当に怖いし、怖いは怖いなのに、とてつもない恐怖が本物で、そうでなければうまく見れないと、またもや、程度の差を見ない言い訳にしていました。


それから、攻撃されると信じているのは、実は自分から先に神を攻撃したからではないか?恐れてるのが、その証拠ではないか? との思いも出てきました。


しかし、やっぱりよく見ていくと、『自分が先に攻撃した』というのが、とても抵抗感があり、認めたくないのです。


『いやいや、神が特別扱いしてくれなかったから、離れる羽目にさせられたんだ。神が悪いんだ。こちらのせいじゃない』 という被害者意識があり、どうあっても、自分のせいだと、間違っていたと、認めたくないのです。


本当に目覚めたくないから、見ない方見ない方に、狂った言い訳ばかりしていくのだなぁと、思いました。

自我の言葉を聞いていても仕方ない。

自我の言葉を信じず、疑っていくことをもっとしていこう、と思いました。


これらの言い訳を聖霊のもとに運んでは、自分ではどうしようもありません、どうか私が恐れと向き合えるよう、助けて下さいと、聖霊に願いました。


そして、今朝も、消される怖さを共に見てくれるように聖霊にお願いして、もう一度見てみました。


消される怖さを感じないようにしていた、拒否しているのだ、(でも)怖さを認めてあげよう、受け入れてあげよう、と思い直せました。


「よしよし、怖いんだね。実相を抹消しようとしてるから、逆に抹消されてしまう!と怖かったんだね。こんなに恐ろしいことをしでかしてしまったことが、怖くて仕方なかったんだね。実相を抹消しようとするなんて、不可能な事をしようとしてたんだね。」と話しかけていると、涙が自然とポロポロ流れて、とても癒されていきました。


涙が流れて、自我の愚かさが見えてきたあと、もうこんな思考体系を選びたくない、私が間違っていたと、そして選び直したいと思いました。そして、聖霊に訂正をお願いしました。


実相を抹消しようとする試みが非常に恐ろしいものだというのに、あなたは、進んでこのことを受け入れようともしない。(T-18.Ⅱ.4:6)

 

 昨日、自我の癇癪についての参考に示された章ですが、これがとても心に染み入り、認めて受け入れようとする意欲となりました。


気づくと、出来ないことをしようと、あれこれしていた自我の愚かさが、見えてきました。

無でしかない。


この平安が、赦しをしていくモチベーションになるということが、ようやく実感できました。

こうして、赦しを重ねていくんですね。


どうもありがとうございます。


ーYさんのメールよりー


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