『奇跡のコース』ワークブックレッスン51
1:1
私の見ているものはどれも何も意味しない。
これらの初期のレッスンでは、イエスは「私たちが見ているものは何の意味もない」ということを強調しています。なぜなら、私たちが見ているものは、裁きと攻撃の誤った想念から来ているからです。
1:2‐5
私の見るものに何の意味もない理由は、私は無を見ているのであって、無は何の意味も持たないからだ。真に見ることを学ぶために、私はこのことを認めなければならない。自分が今見ていると私が思っているものが、本来ヴィジョンがあるべき場を奪ってしまっている。私は、自分が見ていると思っているものには何の意味もないと気づくことによって、それを手放さなければならない。そうすれば、ヴィジョンがそれに取って代わるだろう。
イエスはここではその言葉は使っていませんが、「私たちには分裂した心がある」ということを指摘しています。私たちには聖霊のヴィジョンを通して見ることのできるキャパシティ(容量)があります。でもそこを分離と攻撃の想念で愛の想念を覆っている間は、それはけっして起こりません。もし私たちが自分の知覚が幻想であり意味のないものであることを理解して認識することなくして、そのゴールであるヴィジョンを達成することはできません。この誤った知覚というものはそもそもヴィジョン(心眼)が奪われている状態を私たちが選択した結果なのです。そこには自我自身を守るという目的があるのです。実際には、自分の分離した自己をそれ自身の分離したアイデンティティーが守っているということです。この世界にいるただ一つの意味を発見することから自分たちを守るものでもあります。そのたった一つの意味というのは、「赦し」です。
2:1
私は、自分の見るものにそれが自分にとって持つすべての意味を与えてきた。
2:2‐4
私は自分の見るすべてのものの価値を判断してきた。そして、私に見えているのは、この価値判断であり、ただそれだけなのだ。これはヴィジョンではない。それは単に、現実のように見えている幻想でしかない。なぜなら、私の価値判断は現実からきわめてかけ離れたところで下されてきたからだ。
この教えは、私たちが見ている世界はそこにはないというものです。なぜなら、それは私たちの裁きの想念から来ているものだからです。当然、裁きの心も本当はそこにはないということです。自我の思考体系の中のすべての想念は贖罪の原理の真理に対する防衛であるということを覚えておかなければなりません。贖罪の原理とは、「私たちは一度も神から離れていない」というものです。私たちが知覚するすべては、一番最初の実相である源から分離したという判断から来る断片化した影なのです。その原初の判断が幻想の土台です。
2:5‐6
私は、自分の価値判断に正当性が欠けけていることを喜んで認める。なぜなら、私は真に見たいと望んでいるからだ。私の価値判断が私を傷つけてきた。だから、私は自分の価値判断に従って見たいとは望まない。
ここでイエスは、私たちの正気に対してアピールしています。私たちの正気とは、自分の思考が何をしているか?を理解することによって世界を知覚し、それが自分自身を傷つけている、つまり、自分の判断が自分を傷つけてきたということがわかる理性的な心のことを言います。自我は攻撃の想念とその結果としての苦痛との間にとても大きなギャップを防衛システムとして設定しています。このギャップが、つまりは、この世界の時間と空間によって表象されているわけです。その目的は、自分が自分の苦痛に献身しているということを正当化できるからです。そのことがテキストに「自分を超越したものごとや自分には制御できない勢力」(T-19.Ⅳ-D.7:4)というふうに述べてあります。自我の観点からいうなら、これが投影の彷徨いということです。結局、私たちはそれによって、自分の苦痛は神や神の愛に対抗して自分が選択した結果であるということから(免れて)、自分には責任はないことを確信させることになります。苦痛の原因は他者であったり、自分の肉体であったり、世界であったりして、自分のせいではない、誰かや何かのせいだ、と確信させることになります。
ですから、これらのレッスンの主要概念は何かというと、結果を原因に運ぶということです。そうすると私たちは自分の判断もしくは裁きだけが自分を傷つけてきたということを認識することができます。それをしていくなら、自分自身の運命(ディスティニー)、つまり、幸福か惨めさか、平安か葛藤か、それを決定するのは自分の心のパワーだと認識できるようになるわけです。
3:1
私は自分に見えるものを何も理解していない。
3:2‐4
私が自分に見えるものを誤って価値判断してしまっているとしたら、どうして私に自分に見えるものを理解できるだろうか。私に見えているのは、自分自身の思考の誤りが投影されたものなのだ。私に自分に見えているものが理解できない理由は、それが理解不能なものだからだ。
これが謙虚さのはじまりです。私たちはいつも自分が正しいということに確信を持っています。自分が見ているものが見えているものであり、自分が聞いているものが聞いているものであり、何かの状況についての私の理解が私がこれはこうだというふうに言うことができるものです。なぜなら、私がそう言うからです。もし私たちがそれを充分に熟練しているなら、自分の言っていることに賛同するたくさんの人々を集めることができます。これは狂気です。これは正気ではなく、集合的な狂気です。フランス語ではこのことを「感応精神病(フォリアドゥ)」と呼んでおり、つまり、精神障害の妄想性障害であり、一人の妄想がもう一人に感染するというもので、結局、二人の人々によって妄想が分かち合われるということを意味します。これは二人だけではなく、何十人にも、何百人、何千人、何万人、何百万人にもなっていきます。なぜなら、私たちはみんな同じ狂気をシェアしているからです。ですから、私たちは何も真に理解することはできないし、真の理解をする誰かを求めていくこともできません。もし、私たちが特別性や裁きや分離を何かしら感じるときは、私たちは「自分は間違っているにちがいない」という結論に至るほか何も信頼することはできません。
3:5‐8
自分に見えるものを理解しようと努めることには、何の意味もない。しかし、自分に見えるものを手放すことによって、見ることができ、理解し、愛することのできるもののために場所を空けることには正当な理由がある。私は、自分に今見えているものを、そうしようという意欲を持つだけで、これらのものと交換することができる。これは、私が以前に下した選択よりもよい選択ではないだろうか。
私たちがヴィジョン(心眼)を達成する道は、シンプルにそうしようとする意欲によってです。イエスがずっと繰り返し云ってきたのは、私たちの選択する心の力について、です。ヴィジョンを選ぶか裁きを選ぶか?幸せを選ぶか惨めさを選ぶか?平安か苦痛か?の選択です。これを私たちにとってどのようにしてちがう選択をするのを可能にするのか?というなら、「自分には選択する力がある」ということに気づいて、そして、その選択は肉体や外側の世界にではなく、自分の心にその選択の力が宿っているということに気づくことです。
4:1
これらの思いには何の意味もない。
4:2
私の自覚している思いに何の意味もない理由は、私が神とは別に考えようとしているからだ。
これが結論です。神の象徴は聖霊、イエスであり、これらのレッスンの概念(想念)です。それが神を表すものです。もし私たちがこれらの考えと同じように考えていないなら、たとえば、不平不満、攻撃の想念を握りしめていたり、どんな形でも、どんな状況でも、どんなことにおいても特別な必要があるということにしがみついているならば、私たちはつまりは何も考えていないということなのです。何も考えていないわけですから、そこからやってくるどんな結果のそれらも存在しないということです。覚えておかなければならないのは、原因と結果はけっして離れないということです。幻想は、さらなる幻想を生み出す源となるだけです。
4:3
私が「私の」思いと呼ぶものは、私の真の思いではない。
その理由は、それらは私の(my)考えだからです。「これは私の」「これは私」と言うとき、もしくは「これは私の考え」「私の知覚」「私の肉体」「私の○○」と言うときは、全部誤りでしかないということを学んでほしいとイエスは云っています。そういう考えは、分離、特別性が基盤(ベース)となっています。そもそも存在論的なはじまりのときに、自我は神にこう言いました。「これは私のものです。これは私の自己であり、あなたのものではありません。私はもはやあなたの一部ではありません。そして、私は正しい」と。この態度が、いつも誤りなのです。なぜなら、神の子は一つですから。なので、一見、異なるように見える子らは実際には何の区別もすることはできません。個人的な所有や、特別なアイデンティティーといった信念は、本当はすべてとシェアしている非個人的で特別でない(大文字の)自己を覆い隠しているだけです。
4:4‐5
私の真の思いは、私が神とともに考える思いのことだ。私が自分の真の思いを自覚していない理由は、私が自分の思いをでっちあげて自分の真の思いに置き換えてしまっているからだ。
イエスはこのことを繰り返し私たちに伝えており、私たちが神と共に思考することに入れ替わるものとして自分の考えを作ったと述べています。なぜ私たちはそれをやったかというなら、私たちは「私(アイ)」でいたいからです。私たちはこの一人称単数をとても大事にしますし、一人称単数の所有格もとても大事にします。だから、「私たちの」とは言わないで、自我はいつも「私の(もの)」と言います。
4:6-8
私は、自分の思いが何も意味しないことを喜んで認め、それらの思いを手放すことにする。私は、それらの自分の無意味な思いを、それらに取って代わるよう意図された自分の真の思いによって置き換わらせることを選択する。私の思いは無意味だ。しかし、私が神と一緒に思考する思いの中には、すべての創造を見出すことができる。
ここで再びイエスは、私たちには選択し直すことができるのだということを思い出させています。神の想念によって、私たちのこの想念が神が創造したままの神の子としての私たちの想念に入れ替わるように選択し直すということを奨励しています。
5:1
私は決して、自分の思うような理由で心乱されているのではない。
5:2
私は決して、自分の思うような理由で心乱されているのではない。なぜなら、私は四六時中、自分の思いを正当化しようとしているからだ。
いったん私たちが個人であるということを決断したなら、あるいは、一人称所有格を決断したなら、私たちは常にその存在を正当化しようとします。これは無垢なる顔の役割といえます。「それは私のせいではない」というふうに、私はできるかぎり多くの人々を集めて、自分が被害者であることの知覚を正当化します。これはけっして難しいことではありません。なぜなら、この広大なる世界には山ほどの投影の相手(対象)があるからです。さらに面白いことに、私たちはみんな自分の無垢なる顔を正当化しようとするので、結局は、自分の存在、つまり個別で分離した存在を続けていくことをたしかにして、でもそれは他者のせいで他の人たちに罪の責任はあるとしています。ですから、その罪に対して処罰される彼らはもう自分の中には見つからないということをしています。
5:3‐7
私はいつでも、自分の思いを真実にしようとしている。私は、すべての物事を自分の敵に仕立てあげることで、自分の怒りを正当化して、自分が攻撃を根拠づけようとしている。私は、自分に見えるすべてのものに敵としての役目を割り当てることによって、自分がどれほど自分に見えるものを誤解して虐げてきたか気づかなかった。私は、自分を傷つけてきた思考システムであり、もうこれ以上望んでもいない思考システムを守ろうとして、こんなことをしてきたのだ。私は喜んでそれを手放すことにする。
はじめてこのワークブックを行う学習者たちのほとんどは自分が読んでいる内容に注意深くなることはないでしょう。しかしながら何年もコースを学んだり、ワークブックももっともっと注意深く読むようになったなら、もちろんそうなることを奨めるわけですが、そうするなら、彼らはイエスが実際に云っていることを、つまり、ワークブックレッスンの初期でこのような内容が述べられていることに驚嘆することになるでしょう。
イエスは教えるべきことを教えているといえます。私たちは今や、自分が間違っていることを喜ぶことを決断します。さらに、自分の内側の中に正しさがある、正しい別の者があると認識することでより幸せになるわけですが、これについては、自分の怒り、裁き、傲慢さ、そして特別性への献身、究極的には自分の個人性、個別性といったものを手放すことが含まれます。私たちは防衛として自分の投影によって何をするかというと、他者を特別な愛のカテゴリーに入れるか特別な憎悪のカテゴリーに入れるかのどちらかなわけですが、一方とはつながるけどもう一方とは分離するというような投影の分離を強化するものとして他者を使うことへの思い入れを手放す必要があります。私たちの自我は「自分は無垢である」と示す必要があるわけですが、いずれにせよ、それは攻撃や裁き、そして自分が投影した相手に罪を着せて、相手の罪悪感というものを通して満たされることになります。そして自分は狂気と魔術の力動を通して処罰から逃れることができるというふうに、これも魔術のように希望を持つことになります。今、私たちは「それ以外を選択する」と喜んで宣言することができます。
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