自称「覚めた人」たちについて思うこと
自分は覚醒した、自分は目覚めた、自分は悟った、と自称している人たちのことを、自称「覚めた人」というふうに私は呼んでいます。
彼らは、目覚めたフリ、をしているわけでもありません。
本人は本気で自分は目覚めたと思っているわけです。
でも、自分が見ている外側の世界には目覚めていない人たちを見続けていながら、「私は目覚めていて、あなたがたは目覚めていない」というふうに見ているわけです。
まさか、自分の外側に知覚している目覚めていない彼らが自分を映し出している鏡とはまったく思っていないわけです。
私たちは一なるものとしてつながった一体性(ワンネス)であるにもかかわらず、もはやそのことはまったく忘れられているか、除外されているとしか言いようがありません。
にもかかわらず、「自分は目覚めた」と信じているのです。
分かっていないからこそ、そう思い込むことができるわけです。
「自分は目覚めていて、あなたは目覚めていない」ということなどあり得るのでしょうか?
それがあり得るとしたなら、それは分離の幻想/虚偽の中でしかあり得ません。
要は、真に目覚めているならば、そのような知覚の仕方はしないということです。
真に自分が目覚めるとき、自分ひとりが目覚めるのではないということを覚えておくとよいでしょう。
私たちは神のひとり子であり、目覚めるのも神のひとり子であるからです。
私たちは一なるものであるということです。
そのように知覚されていないならば、目覚めているとはけっしていえません。
そうであるならば、この世界において学ばれるべきこと、訓練されるべきことがまだまだあるということです。
とにもかくにも、自称「目覚めた人」には霊的な未熟さを覚えてなりません。
彼らを批判したくもなりますが、それでもそんな彼らも自分自身(自分たち)であるわけです。
私たちの愚かさ、無知さを見せてくれているからこそ、この私も彼らを教師としてそうならないように警戒していくことができるわけです。
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