聖霊にサレンダーすることに対しての怖れについて
自我を教師とするのをやめるとはどういうことか?
というなら、
自分の考えをまるごと明け渡す、ということです。
そして、それが聖霊を教師として選び直すという意味です。
そして、それがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を通して私たちが学んでいることです。
要は、自我を教師とするのをやめて聖霊を教師とする、ということです。
自我を教師とするのか?それとも、聖霊を教師とするのか?
だたし、その実践はシンプルなように見えて、実際は、その実践はなかなかそう簡単にできるものではありません。
自我を教師とするのをやめるということがいかに難しいか。
それにはある程度の学びと訓練が必要だということ、あるいは、霊的に成熟していなければ、とうていできることではないということです。
というのも、自我と同一化してしまっている私たちは、つい自分でなんとかしようとしますし、これまでの自分を保持しようとしてしまうからです。
つまり、聖霊にサレンダー(明け渡す/降伏する)ということに対してひどく抵抗が起きてくるということです。
自我をあなどってはいけません。
というのも、自我は死に物狂いで抵抗してくるからです。
それは、自分の生存本能を脅かすほどの怖れが伴うこともあります。
だからこそ自分の考え(自我)にしがみつこうとするわけです。
それは、本当ににっちもさっちもどうにもならなくなって、行き詰ったて、ようやく、私たちは明け渡す(諦める)ことが可能となります。
いわば、そうなるとき、そのときこそが「準備が整ったとき」だと言うことができるでしょう。
準備が整ったとき、自分はもう自分の考えを持ち続けるのは不可能だと受け入れることになるということです。
そのようにして、霊的に学ばれて、霊的に成長していくならば、それが制限の枠を超えた未知なる体験をただ怖れているだけだと分かってきます。
霊的に成熟した者たちは、その制限の枠を超えていくことをむしろエキサイティングに楽しむようになっていくといえるでしょう。
そう、霊的に成長していくこと、それが私たちが目指しているのもです。
そのようにして、私たちは自己に課した制限の枠を破壊して、未知なる体験へ、新たな体験へと踏み込んでいくのだということを知っておくと良いでしょう。
自我を教師とするのをやめて、そして一歩退く。
それは自分の考えをまるごと明け渡すという実践なわけですが、そう生半可ではないということです。
そういう意味で、自分の考え、そのすべての思考が自我の思考体系であるということを真に自覚していくこと、そして、その代償を体験的に学んでいくほかないと言うことができるでしょう。
0コメント