聖霊に動かされていく、身体に動かされていく

これまではこの身体を自分の体だと思っていましたし、だからこそ、自分でこの身体どうにか面倒見ていかなきゃならないと思ってきたわけです。

ですが、ひょっとしたら、そうではないのかもしれません。

むしろ、その真逆なのかもしれないと。


誰が呼吸をしているのか?

誰が心臓を動かしているのか?

誰が食べたものの消化活動や代謝活動、排便活動をしているのか?


そう考えたときに、自分の力で生きているのではない、ということは明らかです。

生理的活動のそのすべては自分の意志で行っているのではないと。

私たちにできることは、せいぜいそれらの補助的な活動だけです。

そして、私たちは生存していくための補助的な活動のほうに価値を置いて没頭している、そして、それが生きることだと勘違いしていると言うことできます。

私たちが学ばなければならないのは、この身体はこの世界で生きる手段(術)を知っているのではないか、ということです。

この身体には生きるための智慧がそもそも備わっているのではないか、と思うわけです。

むしろ、いろいろ頭で考える(思考する)ことによって、それを制限、邪魔しているのではないでしょうか。

ようするに、自分でいくら考えても、どうにかできるものでははない、ということです。

自分でどうにかしなきゃ生きていけない、と思ってきたわけですが、そうではないということです。

もっといえば、自分はもっとこの体にゆだねていくことが求められているのでは?とさえ思えます。

頭で考えていることよりも、体のほうがすべてを知っているのかもしれないということです。

この体が神のものであるならば、当然、この体は「知っている」はずです。

自分にとって本当に必要なものは何か?

自分は何をすればいいのか?

この自分(の考え)のほうが何も分かっていないのでは?と気づかされるわけです。

というのも、もはや自分の考えではにっちもさっちもどうにもならないと行き詰ったからこそ、そう気づかされるわけです。

実際、自分の考えを信じなくても、今ここに生きているし、この今も生きていけています。

この身体はたんたんと生理的活動を続けていくのを見ていると、もはや奇跡としか思わざるを得ません。

だからこそ、この身体が欲するままに、身体に動されていくままに、この人生をゆだねてみようと思うわけです。

それはちょうど聖霊に動かされていく、そういうことなのかもしれません。


アウェイクニングシンフォニー

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