イエスを崇拝することなかれ

コースをまだよく理解していないコース学習者で、

聖霊やその具現化したシンボルであるイエスを教師としてではなく、

ときに、神秘な魔法使い的な存在として扱っていたり、

ときに、特別な存在として崇拝していたりすることがあります。


イエスや聖霊をそのように扱うとき、

それがどういうことを意味するのか?というなら、

イエスに対して、「私はあなたとちがいます、私とあなたは別の存在です」

と宣言しているということです。


それは、イエスを、聖霊を、特別な関係にしてしまっているということであり、

ようするに、分離の想念を強めることをしているということです。


イエスとは?聖霊とは?


それは、わたしたちの真の自己の記憶を覚えている正しい心のことですから、

私たちとちがう存在、別の存在なのではないということです。


イエス(聖霊)は、自分とは別の存在でもなければ、むしろ、私たちの真の自己なのだということ。


イエス(聖霊)を「教師とすること」と、

イエス(聖霊)を「崇拝すること」とでは、

その学びも大きく歪曲してしまうことになります。


もし、イエスや聖霊に対してそのような想いを抱いて実践しているのなら、

それは、イエスを十字架にかけていることになるということです。


天使、高次の存在、守護霊、霊能者、ヒーラー、ティーチャー、等々、、、

もし、何かを、誰かを、兄弟を、崇めるならば、

それは分離を信じている(分離を強化している)ということであり、

イエスを十字架にかけているのだということです。


偶像崇拝とはそういうものであり、

イエスや聖霊はそういうことをわたしたちに望んでいるのではありません。


イエス、そして聖霊は、

わたしたちは同じ、対等、一つ、分離はないというほうへと、

わたしたちを導いてくれています。



良き教師の常として、聖霊は、今あなたが知っていることよりも多くを知っているにもかかわらず、あなたと自らを対等とするためにのみ教える”(T-6.Ⅴ.1:1)



ワプニック博士はこう云います。


「コースのイエスと、聖書のイエスを一緒にしないでください。

聖書のイエスのように、イエスが魔法か何かでわたしたちを救ってくれるのではありません。

イエスを教師として、イエスが見ているようにこの世界を見る訓練をしていくことです。

そして最終的にはイエスと同一化していくのがわたしたちの目指すゴールです。」と。


イエスを崇拝することなかれ。


イエスと私たちは何一つちがってはいないのだということ。


そのことを完全に受け入れるその(贖罪の)瞬間まで、

私たちはコースの実践を通して学んでいくのだということです。



私が無駄に死んだと教えてはならない。そうではなく、私があなたの中に生きていると示すことによって、私は死んでいないと教えなさい。”(T-11.VI.7:3-4) 


ACIMシンフォニー

『A Course in Miracles/ACIM/奇跡講座)』をケネス・ワプニック博士が解説する教材で学んでいるコース学習者です。その学びと実践を通しての理解をシェアしています。

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