私たちは、自分を人間だと信じていますし、「個人の自分」を自分だと信じています。
コースの学びは、最初はそこから学びがはじまるとしても、
コースの学びが深まるにつれて、
コースを学んでいる自分は肉体としての個人の自分ではない、
ということを認識していきます。
形而上学に基づいた実践を通して、
その個人の自分はたんなる(非実在の)影であることがわかってくるとともに、
「心」である自分を認識するようになっていくということです。
ちなみに、その「心」である自分は、
それまでずっと忘れられていた視座であり、
その視座は時空(戦場)を超えたところであり、
すべてを一つ(同じ)として見ている視点です。
その視座は、形而上学に基づいた赦しを実践していくことによって思い出されていきます。
つまり、「赦し」は、その視座を思い出していくための実践的手段なのだといえます。
その実践は、
「個人の自分」から「心の自分」へのシフトの訓練になっていきますし、
言い換えるなら、
そのシフトこそが、コース学習者であるわたしたちの目指すゴールだといえます。
コースの学びが深まっていくにつれて、
つまり、コース形而上学の理解が深まっていくにつれて、
ある段階において、
コースを学んでいるのは個人の自分ではなく、「心」の自分なのだ、
と認識されていくということ。
ようするに、
自分をどう捉えていくか?によって、
その学びは確実にその階梯を高みへと導かれていくか、
そうでなければ、
相変わらず個人のままで階梯の下に留まったままになるか、
のどちらかに分かれるといえます。
「個人の自分」のままでコースを学んでいるとするなら、
そこでの実践は、
個人のままで平安でいる、個人のままで幸せでいられる、
ということがその目的になってしまいかねません。
それではコースを歪曲して実践していることになります。
”奇跡は、学びが正しい指導のもとに為されたことを実証する。学びは目に見えず、学ばれた内容はその成果によってしか認識できないからである。”(T-12.Ⅶ.1:1)
「個人の自分を自分だと信じたままでは、コースを学んでいくことはできない。」
と、ワプニック博士も云っています。
というのも、
個人の自分を自分だと信じていることそのものが「分離を信じている」ということであり、
それを信じながら、
「分離は起きていない」というイエス(聖霊)の言葉をいくら学んだとしても、
明らかにそれが矛盾しているということがわかるはずです。
その矛盾に気づかせないように個人の自分を維持しておくのが自我の目的である、
と言っていいでしょう。
なので自我はいかなる手段を使ってでも、
つまりコースを歪曲してでも、個人の自分のままで居心地よく居させようとする、
ということをわたしたちコース学習者は知っておかねばなりません。
個から全一へ。
それは、その形而上学に基づいた赦しを実践していくことによってしか、
そのシフトは絶対にあり得ないということです。
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