なぜ、そんなにコースの形而上学が大事なのでしょうか?
なぜ、もりGさんは、形而上学、ケイジジョウ学というふうに口うるさく言うのでしょうか?
もう、コースの概念はわかっているのだから、
それ以上のコース形而上学の学びなんてそんなに必要なのでしょうか?
と、そんなふうに感じていらっしゃる方もおられるのではないでしょうか。
むしろ、
あまりにも形而上学、ケイジジョウ学、という言葉を連発しているので、
もうウンザリと思っている方もおられるのではないでしょうか。(笑)
ということで、
なぜ、形而上学が重要なのか?について、
今回は、私の学びと実践において実感しているところから書いてみようと思います。
そもそもコースでは何が語られているのか?というと、
わたしたちの心理(特に自我)の動きについて詳細に述べられているということです。
つまり、
それを自我の力動論として、イエスはわたしたちに事細やかに教えてくれているわけです。
実際に、形而上学を深く理解するようになってくると、
わたしたちは、いかに無自覚に自我の思考体系プログラムに突き動かされているか、
そして、それがいかに狂った思考体系であるか、を認識できるようになっていきます。
そもそもが神の子であった私たちがどのようにして神とワンネスであった状態から、
この世界にいる肉体の自分へと信じ込んでしまうに至ったのか?
その分離の(地獄への落下の)プロセスを知らなければ、
私たちはどうやってワンネスへと帰ることなどできるというのでしょう。
そう、私たちはそのプロセスを遡ってしか神のもとに帰ることはできないのだということです。
ようするに、
「はい、分離は起きていません。幻想でした。」
と魔法のように一気に神のものとに帰れるわけではないのです。
あるいは、
「はい、聖霊(イエス)を選び直します。」
「ですから、聖霊(イエス)さん、さっさとわが家連れて帰ってください」
というような実践をしていったところで神のもとに帰れるわけではないということ。
そこには、しっかりとしたコース形而上学の理解もとに実践していくほかないのだということです。
実際は、
コース形而上学を理解したところから実践していくことによって、
コース形而上学のさらに深遠な部分が理解されていく、、、
そして、またその理解のもとに実践はより深化していく、、、
といった具合で、
コースの学びは、まさに、その繰り返しです。
その一歩一歩が学びであり、コースはそういう形で学び進めていくものだと言うことができます。
実践的なところでいえば、わたしたちは自我(の思考体系)を直視していかねばなりません。
たとえば動揺したとき、
この人のせいで、この状況のせいで、この環境のせい、、、とするのではなく、
これは(心の)自分がただ外側に投影しただけなのだ、、、と気づいていく、
そして、それはどこから投影されているのか?というなら、
それは、「心(決断の主体)」である自分が自我の思考体系を信じたからだ、
つまり、自分で聖霊の教師を拒否して、自我を教師に選択したからだ、、、
というふうに、その一つ一つのステップ(階段)を思い出していくということです。
その一つ一つのステップを踏み外さぬように辿っていく必要があるということ。
そのような赦しの実践をしていくために、
わたしたちは事細かな心の分離のプロセスを理解しておく必要があるということです。
それ以外に道はないのであり、
その一つ一つのステップを辿っていく以外に確実な道はないといえます。
それは、
けっして、イエス、聖霊が魔法使いのように連れて帰ってくれるようなものでないということです。
わたしたちは、自分で降りてきた分離のプロセスの階段を思い出し、
そして、その階段を自分で上っていく訓練をしていく必要があるのです。
そして、イエス、聖霊は、それを助けることができるのだということ。
ただ、わたしたちは、その一つ一つの階段をすでに忘れてしまった状態になっています。
だからこそ、そのためのコース形而上学が必要なのです。
この道は、一元論の霊性の道でありながらも、まさに心理学だといえます。
(それこそが、コースの特徴的なところだといえます)
コースの心理学的な側面を理解せずに、コースの学びはあり得ないといえます。
この自分は、心において何をしているか?
その心の動きの微妙なところを理解していく、そして気づいていく、
どんなふうに考えているか?理解していく、自覚していく、、、
それがいかに大事か?ということです。
コースの心理学的な側面を学ぶ、それが「コース形而上学の学び」なのだといえます。
その形而上学の理解なしで、コースの実践はあり得ません。
形而上学を学び、そしてその理解を深めていくならば、
コース学習者であるわたしたちがゴールとしている実相世界への階梯(橋)が、
次第に明確に見えるようになっていきます。
形而上学の学び、そして、その形而上学に基づいた実践。
それが、「コースを学ぶ」ということなのだといえます。
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