コースからみた「悟り」についての考察

「悟り」についてのコース的見解は?

というテーマで、私の経験を踏まえたところから書いてみようと思います。


コースの学びのプロセスから言うならば、

「悟り」というものは、

実相(真理/天国/ワンネス)を一瞬だけ垣間見ただけ、一瞥しただけであって、

それがコース学習者がゴールとするものではないと言うことができます。


ワンネス体験、一瞥体験、見性体験、普遍的体験などなど。


コースでは、それを「目覚め」とはけっして言いませんということです。


コースでは、それを「啓示」というふうに呼んでおり、

一つの道標とはなるかもしれませんが、それだけのものだと捉えます。


というのも、それがコースで目指しているところの「心」を変化させるものではないからです。


テキストの第一章のセクションⅡの中には、「啓示」についての言及があります。



ときには啓示が到達地点を明かしてくれることもある・・・”(T-1.VII.5:11 )



到達地点を知ったという意味では、そういう体験は学びのモチベーションにはなるでしょう。


ですが、私自身の経験的なところから申しますと、

コースを実践していく上ではやはりあまり関係ないと言うことができます。


この世界にいると信じているかぎり、

この世界を教室として、訓練(実践)、訓練、そしてまた訓練、、、

ということについては何の変わりはないです。


到達地点に至るための訓練(実践)がいかに重要かということです。


ちなみに、「悟り」という言葉は仏教用語ですが、

仏教でも悟りの後にも修行は続いていく(悟後の修行)と言います。


そういうことで言うなら、

仏教用語でいうところの「解脱」のほうがコースでいうところの「目覚め」と近いように思います。


以前は、「悟り」も「解脱」も一色たんに同じものだと捉えていたわけですが、

今ではその違いがはっきりとわかります。


コースは、「悟り」「ノンデュアリティ」のスピリチュアリティとは違って、

その目的(ゴール)が、もっと先にあるといえます。


だから、コースを「純粋非二元」という呼び方をするのだと。


とくに、巷の「悟り」や「ノンデュアリティ」のスピリチュアリティは、

人間としてこの世界でいかに幸せに生きるか!

人間としてこの世界でいかに苦しみなく人生を生きるか!

といったことが目的となっているように思えます。


コース学習者ですら、それを目的(ゴール)としてコースを学んでいたりします。


コースでは、

「自分は人間である」と信じたまま本当の幸せはありません、

と教えています。


さらにいえば、

自分を人間だと信じたまま、コースの霊性の道を進んでいくことはできないと言うことができます。


なぜなら、コースは、人間、肉体、死すらも超越していく道であるからです。


「悟り」の体験をしようがしまいが、

本当の自分とは何か?を垣間見ようが見まいが、

「自分はこの世界に居る」「自分は人間である」というふうに知覚しているなら、

コースの学びにおいてはまだ学びの途上にいるのだということ。


もちろん、コースの学びのプロセスにおいて「悟り」みたいな体験をしたりもします。


でも、コースではそれをゴールとはしていませんということです。



参考記事:JACIMサイト別館ワンポイント解説「奇跡と啓示」




参考記事:JACIMサイト本館 奇跡講座の学び方 「啓示」について


ACIMシンフォニー

『A Course in Miracles/ACIM/奇跡講座)』をケネス・ワプニック博士が解説する教材で学んでいるコース学習者です。その学びと実践を通しての理解をシェアしています。

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