この自分のそのすぐ裏側に
この自分自身が苦しみの原因ならば、この自分に何ができるというのでしょう。
何をしても無駄どころか、かえって自分を苦しめるだけだと分かるなら、もうどうしようもないわけです。
この自分ではどうにもならないこと、どうしようもないこと、無力だということを認めざるを得ません。
ただその自分と共に在ることしかないわけです。
つまり、苦しみと共に在る、恐れと共に在る、しかないわけです。
それが闘いを終わるということです。
自分自身との闘いの終わりです。
赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。 ・・・ただ見て、待つのみであり、判断はしない。 (W-pII.1.4:1-3)
そのときにもたらされるのが平安です。
どうにかしようとあがけばあがくほど、平安から離れてしまいます。
平安だけを望むようになるまで、私たちは学ばなければならないのでしょう。
思い出さなければならない大事なことは、平安(聖霊)の教師はこの今もここに共に在り続けているということです。
この自分を明け渡したところに、その同じ場所に、平安(聖霊)は在り続けています。
この自分をゆだねきったところに平安(聖霊)は在り続けています。
自分が一歩下がったすぐそこに。
自分が退いたすぐそこに。
この自分のそのすぐ裏側に。
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